鳥栖の古民家に学ぶ

鳥栖の古民家に学ぶ
鳥栖の古民家に学ぶ

鳥栖の古民家に学ぶ

地域に根差した古民家は、その土地の風土にあった家づくりがなされています。新建材など無い時代に造られていますので、木・土・草・紙といった本物の自然素材で造られています。家の中を通り土間が通り、小さな中庭が設えてあるため風が通りやすく、地域全体の環境が育まれています。先祖代々から伝わる地震に対する経験から、建物は免震構造になっています。そしてなにより、ずっと住み継がれています。

高度成長期に、低コスト・工期短縮により、新建材を用いて、多くの住宅が建設されました。また、住宅の快適性と省エネルギー性を高めるため、高気密・高断熱を進めてきました。その結果、室内に使われた新建材から、化学物質が揮発し、気密性の高い室内に化学物質が浮遊し、室内の空気汚染が問題となっています。

いまここで、地域の古民家に学び、私たちの家造りに活かしていくことが必要な時期に来ています。

八女福島町

八女茶の産地として有名な福岡県八女市は、豊富な水と肥沃な土壌、豊後と筑後を繋ぐ交通の要所という条件が揃い、古くから人が集い栄えた地域です。八女福島は、そうした八女の中でも福島城下町として町並みが形成された場所です。多くの商人や職人たちが店や工房を連ねる活気あふれた町でした。八女福島を形作ったものづくりの技術と文化は、現在では手工芸として今でも八女福島に残り続けています。 八女福島では、江戸時代以来しばしば大火に襲われてきました。現在の建物の多くは、 江戸末期から明治にかけて建てられた建物になります。

八女市の中心部福島町は、天正15年(1573年)、筑紫広門が郡内支配の拠点として立てていた館を、関ヶ原合戦後田中吉政が大改造し上妻郡支配の拠点として構えたと伝えられています。それ以後福島町は城下町として発展していき、慶長6年(1601年)に、田中吉政が福島城として整備。その後、田中氏が改易(身分を平民に落とし、家禄・屋敷を没収)されたため、1621年、久留米藩主有馬氏の一国一城令により、廃城となりました。城下町から、在方町に転じた後も、八女地域の交通要衝の地として、また、経済の中心となる商家町として栄えました。


八女福島町は、2002年(平成14年)5月に、国の重要伝統的建造物群保存地区(全国61番目)に選定されました。

八女福島の町家建築

八女福島の町家は、土蔵造りです。蔵と同じようにとても厚い土壁で出来ています。土壁は、調湿力に極めて優れ、熱容量が大きいため、夏の太陽の熱も室内まで入ってきません。ですから、建物の内部に入ると、ひんやりします。入り口の戸は開いているのに、入口の敷居をまたいだ瞬間に、ひんやりします。不思議だと思ったことはありませんか? これは、空気の熱容量がゼロだからです。外気が30℃であっても、室内の床・壁・天井の温度が22℃になっていれば、空気は室内側で常に22℃となります。ですから、土蔵造りの建物では、入口のドアを開け放ったまま生活しても、いつも涼しくて、建物の内部に入ると、ひんやりするのです。


横町町家交流館
福岡県八女市本町94
1階は、3~4室の部屋を一列に並べ、奥に続く通り土間を配しています。江戸末期から明治前期の町家では、商品の荷揚げに利用した吹き抜けが設けられています。


主屋の座敷に面して中庭をとり、それを囲むように廻された廊下に接して便所と風呂場が置かれています。通り土間の奥には、炊事場が設けられ、その奥は離れ座敷から蔵へと続きます。

裏玄関の暖簾と杉玉。

1階食堂。既存の窓の趣を残しながら、気密を上げるため内窓が設置されています。

ホテルの朝食

伝統的建造物群保存地区に指定された八女福島の町中、ほぼ中央に位置する西京町(にしきょうまち)にある旧福島酒造は、元々酒造業を営んでいた坂口本家の屋敷跡でした。建物敷地内に建つ酒蔵は現役の焼酎仕込み蔵として活躍しています。