暮らしの中の仏教まめ知識  第34回 『迷惑 めいわく』

暮らしの中の仏教まめ知識  第34回 『迷惑 めいわく』

暮らしの中の仏教まめ知識 第34回 『迷惑 めいわく』

2024年06月09日
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暮らしの中の仏教まめ知識

迷惑とは、他人の行為により、不快になったり困ったりすることや、その様子を表すことばですよね。
この「迷惑」ということばも、じつは仏教に由来するとされています。
迷(めい)は本当の道にまようことを意味し、惑(わく)は途方にくれてとまどうことを意味します。
今の使い方とはずいぶん違いますね。 

中国の曇鸞大師(どんらんだいし)は、尺取虫(しゃくとりむし)の喩(たとえ)で語っています。
尺取虫は、植木鉢の周りをぐるぐるとまわり続けます。
決してふざけているわけではなく、身体全体をくねらせて一所懸命です。
しかし、ついには歳老いて力つき命終わっていくのです。

どこまでも自我(じが)を主張して生きる人間は、それへの執着(しゅうじゃく)のため自我を超えた真理に決定的に暗いのです。
だからいつでも目先の利害にとらわれ、それがあたかも一番大切なものであるかのように錯覚をします。
それを打破するには人生を貫く真理を聞かせていただくより他はありません。 

仏さまの教えがなければ、迷いさえ気づかず、知らず知らずのうちに自分を傷つけ他人を踏みつけにして生きてしまいます。
このような自他を傷つけるという意味が転じて、この言葉が不都合という意味に使われるようになったのでしょう。

仏さまの教えに出遇い、迷い戸惑う自分に気づき、一人では生きられない事に気づけば、自然と支え合って生きていかれます。
迷惑をかけるとか、かけられるとかではなくて、今日という日を精一杯、出来る事をやれば、豊かな人生になっていくと思うのです。 

インド人は子どもに「お前は人に迷惑をかけて生きているのだから、人のことも許してあげなさい」と教えるそうです。
そして困っている人がいたら助けなさいと説くそうです。
お互い迷惑をかけながら、助け合い励まし合う社会を望みます。

参考 『大乗山 正念寺』HP、『浄土宗 十念寺』HP、『しんらん交流館』HP、『教念寺』HPほか


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